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中通り商店街今昔(1)

▼終戦からの復興(昭和20年代)

 昭和20年(1945)8月。日本の降伏をもって第二次世界対戦が終わる。同時に岩国海軍航空隊基地は連合軍によって占領され、岩国の戦後が始まった。
 終戦前日の8月14日には、零戦を輸送する拠点を叩く目的で岩国駅前は大空襲を受け、畑が広がっていた麻里布村(現在の麻里布町)には凄まじい数の爆弾穴が残されたという。
 国鉄岩国駅は、再興に際して元の所在地よりも南側へ数百メートルほど移設され、現在の駅舎が建てられた。駅前には、戦没者を慰霊し、平和を象徴する塔が建立され、ロータリー型の交差点と、これを中心に設計した放射状の道路が整備された。それは、ヨーロッパの町並みを模した景観デザインであり、華やかな未来を夢見た時の人々の思いが伝わってくるようでもある。



▼歓楽街として(昭和30年代)

 戦前より工業地帯として栄えた駅東側には、テイジンを始めとする数多くの企業が進出し、戦前の東地区は麻里布よりも栄えていたという。岩国港(新港)には外国籍の船が産物の原材料輸送のために頻繁に入港し、その都度、多数の船員が岩国の街へ繰り出した。
 また、米軍基地として使われていた空港は、52年から全日空や日航などが国内では羽田に続く2つめの国際空港として定期便が就航した。民間航路としての利用は64年に旧広島空港開港と同時に役割を終えた。
 終戦から10年前後。昭和30年代の駅前地区は、戦前からあった遊郭などが並ぶ旅館街を正面に据え、その南側の隣接地域には飲食店や映画館などの娯楽を中心に繁華街が形成された。
 現在の本通りには専門店や百貨店などの店が軒を連ねた。象徴的に岩国初の百貨店として寿屋が開業。後にユニードへ転身し、前後して十字屋の開業や移転を経て、駅前の商業と賑わいを底支えした。
 一方で中通りの筋には映画館や高級料亭、旅館が立ち並ぶ中に、パブやクラブなどの夜の社交場が数多く生まれた。時のビジネスマンは、岩国駅前で洒落た社交を嗜むことが成功者のステイタスとされていたという。



▼商店街時代(昭和40年代)

 昭和40年代に入ると、商店や商業者の数と質は向上し、街全体のことを考えるために各地で組合が組成されるようになる。
 主には当時「商店街の三種の神器」と言われたアーケード設備、カラー舗装道路、歩行者天国の3つを得るために、個々の店が力を合わせ振興組合を設立し、法人格をもって国の高度化資金などを借り入れて活用し、ハードウェアの整備を行った。
 こうした中で昭和45年(1970)に岩国市中通商店街振興組合が誕生。同時に開閉式のアーケード設備が完成。前後して本通り会、また岩国駅前本通り商店街振興組合などが相次いで設立し、歩道上の屋根や路面を整備した。
 高度経済成長期の背景もあったこの当時、岩国駅前は一丸となって急速な発達をみる、いわば「商店街時代」に突入する。
 なお、岩国祭は駅前商店連合会(駅前商連)によって駅前の商業振興を目的に、昭和31年(1956)第1回が開催され、後に商工会議所や市と連携を図り、協賛会が主催するようになって今に至っている。平成26年の今年は第58回開催となる。



 中通り商店街には高級品を扱う各種専門店が数多く軒を連ね、流行の先端だった映画やボウリング、ビリヤードなどの都市型の娯楽スポーツ店が人を集め、数多の和洋の飲食店が名を馳せた。道路幅が6〜9メートルの中通りアーケードでは週末ともなると、通行人の肩が触れ合うほどの人出で溢れていたという。
 現在のハト公園(麻里布第三街区公園)には噴水が設備され、夕暮れになるとカクテル光線によって彩られる幻想的な風景がそこにあり、若い男女の語らいの場としても格好のロケーションだった。
 このように商だけでなく風紀や風俗も非常に活発だった時代、岩国駅前は押しも押されもせぬ人々の暮らしの中心地として活気に包まれていた。

▼ニチイと共に(昭和50年代)

 昭和40年代も後半にさしかかると、景気向上は安定的に地方都市へ伝播する。岩国という立地は山口県の県境にあって、広島の経済的な影響を受ける都市であり、生活圏もやはり広島の圏内に属する。それで居ながら独自の商圏をもって発達した背景には、交通網の結束点であった事が大きく影響している。
 鉄道は山陽本線岩国駅。新幹線も新岩国駅。海路は新港。陸路は山陽自動車道岩国ICと、国道2号を大動脈に188号の起点がある。空路では岩国錦帯橋空港が再開(現在)。
 このように全ての公共交通がこの街に集中し、岩国はターミナルとしての性格を有することで、人や物流、情報交流の拠点となり、必然的に街に賑わいが生まれた。
 そんな昭和49年(1974)、ニチイ・ショッピングセンターが岩国駅前に出店した。当時は寿屋の後継として営まれたユニード、地元出資のマルト百貨店が駅前の商業の柱となっていたが、そこへ大手資本が都市型スタイルの量販店として出店してきたのである。地元の商店街ではこれを大きな脅威として受け止め、自衛本能から出店反対の運動を起こしが、時の大店法に則った出店は阻止できず開業。
 景気の後押しもあったにせよ、しかし結果としてニチイの集客力は岩国駅前に大きな恩恵をもたらし、商店街はニチイと共に発展を続け最盛期を過ごした。現在でも、ニチイに設備してあったガラス張りのエレベータは、駅前の都会化の象徴として多くの人に記憶されている。
 そしてニチイは、後の平成7年(1995)に撤退。今度は大型店の撤退が街の活力を衰退させるとして商店街の一部で存続運動が起きた。
 これと入れ違いの昭和62年(1987)には、駅前の核店舗としてフジショッピングスクエアが開業し、現在に至る(現在はフジグラン)。そのほか食品と衣料雑貨の量販店イズミも駅前に出店し、大型店の競争が激化。広島を始めとする近隣都市から、小売り店舗の支店が数多く出店し、撤退していったのも同時期だった。
 商店街でも個人や法人による不動産や新事業への投資が促進され、それらの多くは、バブル経済の崩壊と共に著しい衰退をみる。
 それでも商店街には再生を懸けた底力が残っていた。中通り商店街では平成元年にアーケード設備のリニューアルの着手。明るく生まれ変わった商店街に、大勢の人が期待を寄せたに違いなかった。

【参考】
1970(S.45) 中通商店街振興組合設立
1971(S.46) 西広島バイパス開通(観音-五日市)
1974(S.49) ニチイ開業
1982(S.57) 商工センター竣工
1987(S.62) フジ開業
1989(H.1)  アーケード改修
1990(H.2)  アルパーク開業
1995(H.7)  ニチイ閉店
文責:藤田信雄(中通商店街振興組合理事長)

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